インドネシアの音楽ガムランと日本
ガムラン音楽って?
このインターネット時代、溢れるYouTube動画の荒波の中にインドネシアの音楽がお勧め動画に現れる人、またSNS上で遭遇する人もいるかと思います。また、そんなのまったく現れない、知らないという方も多いですよね。エコー・チェンバーの呪縛から離れて、新たな音楽にも触れてみましょう。今日は、改めてインドネシア音楽と日本の関係を振り返ってみたいと思います。夏のイベントも紹介します。
先ほど、「熱い!」と書いた音楽は、ガムラン音楽です。今や日本も、ガムラン大国です。日本人による新作のガムラン音楽も作られ、日本の楽器とのコラボも試みられています。さて、ガムランとは何でしょうか?これは、東南アジア地域にたくさん見られるゴングや、音の高さが異なるゴングを組み合わせたゴングチャイムをベースにした音楽です。金属鍵盤の鉄琴類や、太鼓、弓奏楽器を使い、楽曲により歌も入るアンサンブルで、インドネシア各地で発達した伝統音楽です。また、ガムランの伴奏で踊るジャワ舞踊、バリ舞踊も有名です。次の動画では、ジャワ島の伝統とバリ島のものを挙げておきます。多くの島から成り立つインドネシアには、スマトラ島など、そのほか無数のアンサンブル形態があるといってよいでしょう。
曲①(グンディン)《ランチャラン・クボギロ》は、ジャワ島のガムラン音楽で、伝統婚礼(テム・パンギ:新郎新婦の対面儀礼)の進行での神聖な伴奏曲として、また重要な来賓を迎える際の音楽として広く演奏される音楽のようです。元々、ジャワ島の音楽は宮廷で発達したため、優雅な曲調が多いです。「冷めたガムラン」と言われることもあります。
曲①:(グンディン)《ランチャラン・クボギロ》(GENDING LANCARAN KEBO GIRO (Laras Pelog Pathet Barang) - Karawitan Pringgo Kawedhar)
曲②は、バリ島のガムラン音楽です。ジャワ島のものと対照的な性格で、よく「熱いガムラン」と呼ばれます。基本的にはさまざまな村で継承されてきたものです。ヒンドゥー教(バリ・ヒンドゥー)寺院での祭礼などで演奏され、踊られます。
曲②:ガムラン音楽と舞踊、インドネシア・バリ州、ウブド郡プリアタン村(Gamelan & Dances, Peliatan, Ubud - Bali, Indonesia)
日本人が聞いたインドネシア音楽
さて、日本人とインドネシアの音楽が出会ったのは、いつの頃で、どのような音楽だったでしょう。
朱印船貿易(文禄元年[1592]〜寛永12年[1635])の時代は、日本人が海外へ飛躍していました。こうした日本人たちも、海外の音楽に触れたかもしれません。主に現在のヴェトナムへ出向いた荒木宗太郎などは、東南アジアといっても半島側で活躍していたようですので、インドネシア(ジャワ島バタヴィア[ジャカルタ])で、日本人が直接にガムラン音楽を聞いたとの記録はないと思われます。ただ、ある日本生まれの女性は、インドネシアの音楽を直接耳にしたことがあったと思います。
寛永16[1639]年に流罪となった女性「じゃがたらお春」がジャカルタ(じゃがたら)に住んでいました。日本人の母親とイタリア人の父を持ち、そのこと自体が追放の理由となったようです。インドネシアで夫となったシモン・シモンセンとともに、裕福な暮らしをすることとなったとの記録があります。彼女自身の遺言書が現存しますが、その中にも現地での音楽についての記述はないようです。彼女がどんな音楽を聞いていたのか知りたいところですが…実際に、さまざまな理由からディアスポラ(生地を離れて暮らす状態)となった日本人もこの時代にいましたが、彼らの現地の音楽との接触を実証するのは、難しいことがたくさんあります。こうした境遇にあった日本人の数はどのくらいだったのでしょう。今後の歴史研究の中から、こうした情報が出るかもしれません。
時は下り20世紀になると、日本人とインドネシア現地の接触は濃厚になりました。それは戦争という特殊な事情ではあったのですが。当時の日本人が現地で聞いたインドネシア音楽には2つがあったと思います。まず、現代の日本人の中でこの歌を知っている方がどのくらいかはわかりませんが、《ブンガワン・ソロ》という曲があります(曲③)。下に紹介したこの曲の動画では、クロンチョンというスタイルでの演奏を確認できます。ここでは、立ち入りませんが、歌詞は日本語にも訳され、藤原一郎や美空ひばりといった昭和の有名歌手達が録音を残しています。YouTubeで検索してみてください。
曲③ ブンガワン・ソロ(Bengawan Solo - Sundari Soekotjo (Official Video))
昭和15年の陸軍工科学校卒業の後に、太平洋戦争に技術要員として従軍して中国、マレーシア、インドネシア(スマトラ島、ジャワ島)に行った佐藤重信は、インドネシアで聞いたインド人音楽家による《ラ・クンパルシータ》など、音楽についても書いています。スマトラ島パレンバンからジャワ島バンドンへの移動命令によりスマトラ島を去る時、彼がインドネシア人船員から聞かされて感動し原語で歌詞を覚えた曲が、《ブンガワン・ソロ》でした。佐藤はこの曲を原語で歌った最初の日本人だと、自身をのことを記しています(注1)。後の記述から、彼自身もマンドリンをたしなみ、音楽好きであったことが伺いしれます。佐藤は、昭和22年5月の復員船で佐世保港に帰って来ました。
また同時期にバンドン市立工業学校航空科(アンバスクール)の校長だった武安義光の回想記(注2)にも、当時のインドネシア音楽が登場します。当時に習った《ブンガワン・ソロ》や、《Potong Padi》(稲刈りの唄)です。生徒達はスンダ人だったので、後者はスンダ地方の民謡(または労働歌)の可能性があります。少しだけYouTubeを検索したのですが、彼が著作で示した楽曲の動画は見つかりませんでした。彼の著作に引用された楽譜をここに示しておきます。
これらの曲は、民謡であったりポピュラー音楽ですが、先ほど紹介したガムラン音楽には、日本人はどのように接触したのでしょう。一般的に、人が異文化の音楽に接触するルートには、音楽を直接聞く、また音源や映像などの視聴や書籍などによる知識の受け取りという2つのルートがあるとおもいます。直接触れる場合、人が異文化の地に移動する商業活動、興行活動、旅行、戦争、留学を含む移民などがあります。当然、逆方向のものもあります。日本にいながらにして海外の音楽家の演奏に直接触れると言った場合です。日本とガムランの接触は、どのようになっていたのでしょう。先に挙げた戦時の場合、現地へ行った日本兵が宮廷の音楽であるガムランに触れることはなかったかもしれません。一方、当時のインドネシアの民間の中に、簡易な形のガムラン(例えば竹を使ったようなもの)がどの程度普及していていたか、またそれに日本兵が耳を止めたかについては、手元の情報が不足しています。一方、大学での研究・教育の中では、最初に知識のレベルでの吸収がありました。音楽学者田辺尚雄は、コロンビアレコードから『南方の音楽』シリーズ(1942年)の中で、バリ島のガムラン、ジャワ島のワヤン影絵芝居の音楽とスンダ地方の民謡、スマトラ島の民謡を現地録音で紹介しています。音楽評論の山中一郎は、このレコードを「大東亜戦争が始まり南方が新戦場として國民の間にクローズアップされてゐる」から反響があうだろうと記しています(注5)。戦後になると、学生がガムランに触れることが始まっていきます。
知るから楽しむへ
1973年、東京芸術大学の学生で米国留学から帰った田村史は、芸大1号館1階の会議室に到着したガムラン楽器を見て、「カーテン越しの光を受けて青銅の楽器たちは深海の真珠貝のようにきらめき、均整の取れた輪郭を浮き上がらせていた」と形容しています(注6)。この楽器は、日本の民族音楽学に大きな貢献を残した小泉文夫が苦労の末に、インドネシア・ジャワ島ソロ市から導入したものでした。
これを契機に、ガムランが日本の大学に導入されました。現在までの50年を超える歳月の中で、多くの日本人ガムラン音楽演奏者が生まれました。昨年2025年には、その中から生まれたがムラン演奏グループ「ランバンサリ」が活動40周年を迎えています。伝統的なジャワガムラン曲を演奏し、日本にガムラン音楽を広めてきました。また、東京音楽大学にも、1975年からジャワガムランが導入され、その演奏教育は学生だけでなく広く社会人のための講座にも広がっています。また、国立音楽大学、大東文化大学、静岡芸術文化大学などには、バリ島のガムランを教える教育が根付いています。関東ばかりでなく、関西にも多くのガムラン演奏者や団体が生まれ、伝統曲の演奏だけでなく、新しい試みも多く生まれています。例えば、ガムラン音楽を学んだ西洋音楽作曲家小出雅子が、ガムラン楽器と西洋楽器を組み合わせた曲を作りました。また、日本の雅楽の楽器、篳篥を使った曲も発表しています。その他にも、藤枝守、宮内康乃といった作曲家たちが、ガムランを使った曲を発表しています。伝統的なガムラン音楽をそのまま日本で演奏するだけでなく、日本に根付いた西洋音楽や、日本の伝統音楽とを組み合わせることで、新たなシナジーが生み出されているのです。あと50年ほど時が流れたとき、どんな新しい音楽が生み出されているのでしょう。今から楽しみです。
最後は、今夏に関東・中部圏で繰り広げられるガムラン音楽関連のイベントの例を、自身の備忘としてもここに紹介しておきます。
特別展ジャワとバリ—多様な楽器がつむぐインドネシアの心— 2026年7月11日(土)〜12月8日(火) 浜松市楽器博物館展示室
第25回阿佐ヶ谷バリ舞踊祭夢の色を映す響き」 2026年8月1日(土)・2日(土) 阿佐ヶ谷神明宮境内能楽殿(東京都杉並区) 主催:阿佐ヶ谷バリ舞踊祭実行委員会
ならす つくる おどる やってみよう!ガムランと仮面 2026年8月8日(土) フォーラム横浜ホール(横浜市戸塚区) 主催・問合せ:よこはまガムランhouse
エスニックな篳篥ワールドへようこそ 2026年10月16日(金) 杉並公会堂(東京都)チケット:イープラス(2026-07-16より販売)
注1 佐藤, 重信. 1987. 航空技術戦争. 銀翼を支えたわれら(ジャワ航空修理廠回想録刊行委員会 編). 東京:ジャワ航空修理廠回想録刊行委員会. 68-126. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13198690
注2 武安, 義光. 1987. 付・アンバスクール始末記:バンドン市立工業学校航空科教育. (ジャワ航空修理廠回想録刊行委員会 編). 東京:ジャワ航空修理廠回想録刊行委員会. 156-169. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13198690
注3 不明. 1987. *懐かしのブンガワンソロの歌. バンドン市立工業学校航空科教育. (ジャワ航空修理廠回想録刊行委員会 編). 東京:ジャワ航空修理廠回想録刊行委員会. 156-169. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13198690
注4 長崎市. 2012. 発見!長崎の歩き方:ジャガタラ文とお春の人生. ナガジン! 長崎市:長崎市広報課公聴課. https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/smart/t201210.html
注5 山中, 一郎. 1942. 「南方の音楽」を聴く. 音樂公論. 2(7), 92-94. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1500012
注6 田村, 史. 1993. 芸大ガムラン小史. 東京芸術大学100年史:第5章創立100周年記念演奏会. 東京:東京芸大未来創造継承センター. 356-358. https://archives.geidai.ac.jp/files/y100/100yh_con03_019.pdf
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